田渕義雄 四国八十八ヶ所巡拝の追憶~昭和初期~

はじめての四国お遍路巡拝 十一番藤井寺~焼山寺 追憶2. 昭和4年

2018/08/10

第二日目は五時起床、いただいた沢山の接待で重い荷物を背負い六時出発。軒下で般若心経を御唱へして「結構な一夜有難うございました」とお大師さまに御礼申上げました。今日も御接待をいただき乍らお参りで、次々と変った景色で、川原に水の無いのが不思議に思いました。

岡川原と言って、雨が降ると二日位水が流れて、後は水が川の底を流れて水が無くなるのだと教えてくれました。

十里十ヶ所の道は、五十年前も現在も殆ど変らず、十里十ヶ所を過ぎると吉野川で、帆立舟で川を渡りました。途中、中ノ島があり暫らく歩き又、帆立舟で渡り、四銭払いました。

水が多いのと、川の大きいのに驚きました。此の川は三県にまたがって、夏の「かんかん照り」でも、川の水が時々濁ることがあり大変奥が深いのだと父が話してくれました。

十一番藤井寺に御参りして、門前で一番大きい「本家ふじや」に泊る

五時頃十一番藤井寺に御参りして、門前の沢山の御宿からさかんに「お泊り下さい」と引っぱりだこで一番大きい「本家ふじや」に泊ることにしました。

当時の建物は変りましたが、現在も「本家ふじや」で立派な御宿を続けておられます。

夕食が終ると、いよいよ明日の焼山寺越のことで、アチコチから話がはずんでいました。

父から、「焼山寺は身軽になって越すからニ、三日不要の物は全部出しなさい。荷物になるものは「ヒキャク」で先に十七番まで送るからと云はれました。

焼山寺は四国巡拝中第一の難所です。「今尚旧遍路道は殆んど昔のまま残っています」

五時半出発、直ぐ山道にかかりましたが、白一色の遍路の列で賑い、細い山道が白い帯のように見えるのです。

遍路の出盛り時は、毎日300人位山を越すとの事でした。約一時間程登り、小高い禿山で休憩し、吉野川と十里十ヶ所が一目に見え、二日間歩いた道を眺めながら、思い出にふけりました。

小憩後も細い山道で山の横腹谷間、小高い岡とうねりくねった道を約一時間歩いて、一つの山を登りつめた所で、山寺の小さい御堂に着きました。

「丁度の庵」ここで雑菓子を買って一休み、十一番から五十丁、此の山寺に住職が居られて、二十人位の御通夜も出来るようになっていました。

後から後から同行が登って来るので席を後の方に譲って出発しました。昭和三十五年頃まではこの建物が残っていましたが、壁が落ち、屋根が落ちて、とうとう四十年頃には崩れてしまい、今は小さい御堂が一つ残っているだけです。

続いて山の峰づたいで暫らく歩くと又急坂になり、七八丁登ると平坦な見はらしの良い高い所で、暫らく景色の良い山々に見とれていました。

続いて、緩い下りを少し歩くと、まちかねた、名高い一本杉が目の前で遠くに見え始めました。

いろいろな感想にふけりながら、深い山道を暫らく降りると、噂に聞いた「柳水庵」に到着しました。深い山奥にこんな立派なお寺があるのかと思いました。

ここの柳水庵は、お大師様の由緒の深い所で、御納経をいだだきゆっくり休ませていただきました。

この山奥の柳水庵のおばさんは昔の女子大卒業で、字が四国一上手とききました。次いで一本杉へ途中何回も休みながら十一時頃に到着、杉の木の大きいのに先ず驚きました。

杉の根本は大人が十人位手をつながなければ廻れないと説明してくれました。

お大師様の立像が祭られ勿体なく思はず頭が下りました。

お弁当をすませて暫らく休み、又急な細道を二十丁程降りると、谷底まで降りました。

きれいな流れの谷川を渡り、又急な山道を登り始めました。

朝出発してから山を登ったり降りたりで、三つ目の山になり疲れた足で大変でした。

何でこんなに疲れたかと考えてみると、一本杉より急な降り道で、関節がつかれた為と思いました。何回も何回も休み乍ら、二十丁の上りを二時間かかって焼山寺に着き今更ながら険しい山に感慨無量でした。

暫らく休み三十丁下って赤い橋の側の遍路宿「なべや」に泊りました。

此山越えについて其の後の感想ですが、十一番より焼山寺山越えで、一番印象に残り、感激するのは一本杉のお大師様の立像と思います。山を登り、谷を通り、誰でもくたくたになり息も途切れて歩き、最後の十段位の石段に来て、ふと見上げると、お立ちになった背丈の御大師様のお姿が千数百年もの大杉の前でにっこりと、お笑いになっているお顔で、我々を迎えて下さっているお姿を見て誰でも思はず「ありがとうございます」と疲れを忘れて喜ぶのです。

私は数十回お参りさせていただきましたがいつも新たなお参りの感じがするのです。

ある時、本人のたっての願で、中風で歩行も出来ない主人に奥様が付き添って普通の倍の時間をかけてお参りしたことがありますが石段の上り口で、大声でバンザイお大師様アリガトウゴザイマスと声を出して、泣いた方があるのです。

遍路の修業として一度は旧遍路道の山越えをお願いしたいと思います。  つづく

 

<<脚注>>
この『巡拝の思い出 徒然』は大阪楽心会創立者である田渕義雄初代会長が初めてのお遍路を高野山から始められた際の遍路巡拝の記録です。本文が載せられた昭和56年1月1日 『安楽道』(四国霊場第6番札所安楽寺機関紙)新年号特集にはご畠田秀峰住職より以下の ようにご紹介されています。
「51年前(昭和4年)の四国巡拝の様子を田渕義雄氏に書いていただきました。大阪楽心会は八十八ヶ所の各礼所の本堂、大師堂等に朱色のローソク立てを寄贈された団体で一度お詣りしたお方なら、このローソク立てを思いおこすことができる人が多いと思います・・」
文中51年前とあるのは、昭和56年起点であることをお断りしておきます。

 

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